前回の記事より、UX講座の番外編と題して、UXにまつわる時事ネタ&考察をお届けしています。
前編は、この数週間ClubhouseとDispoという新興SNSがブームになったことを受けて、これらをUXの観点から見ていきました。
後編の今回は、ClubhouseとDispoのが僕たちの生活に根付いていくのか、定番SNSになっていくのかについて、そして同種のUX設計の今後についても色々と考えていきたいと思います。
もくじ
ClubhouseとDispoは、僕たちの生活に根付いていくのか
不便さを楽しむUX
UX設計の難しいところは、「便利になったからといってUXが向上するとは限らない」という点です。
言い換えると、操作が簡単になったり、機能が増えたりしてUIが向上したとしても、それで良いUXになったと言えるかどうかはわからないということ。
たとえば、キャンプ。
テントを張ったり、火を起こしたり、飯盒でごはんを炊いたりと、便利なもののない環境で自らやるのが醍醐味の一つです。
これを楽しみにキャンプに行ったのに、部屋があって、コンロも炊飯器もあったら、もうそれは別物になりますよね。
つまり、不便さとプロセスを楽しむのが、キャンプのUXだという見方ができます。
Dispoはまさにこれと同じで、「翌日まで撮った写真が見られないワクワク感」が体験の肝になっています。
Clubhouseの「アーカイブなし」は、不便さそのものを楽しむのとは少し違いますが、この不便さが「聞き逃したら二度と聞けない」という体験をつくり出しているんですね。
生活の一部になるか?という疑問
「できるだけ長くつながっていてもらう」ためのUX
今、巷ではこれらの新興SNSがますます流行るのか、あるいは定着していくのか、さらにはFacebookやinstagram、Twitterに並ぶようなSNSに成長するのか、といった議論が巻き起こっています。
結論から言うと、僕自身はそうはならないと思っています。
今あげたような定番SNSは、情報収集、あるいは友人知人とのコミュニケーションツールとして、もはや僕たちの生活に根付いたものとなっていると言えます。
現代のUX設計の潮流は、いかにユーザーのマインドシェアを奪うか、というのがひとつのキーになっているんです。
Googleも、Amazonも、AppleもNetflixも、ユーザーがアクセスしている時間を極力長く、さらに言えば「常時接続している」ような状態を目指していますよね。
ClubhouseとDispoは「非日常」
そんな中で、ある意味ClubhouseとDispoはそれと逆行した存在になっていくのではないか、と見ています。
というのも、あえて不便さを取り入れたUXは多くの場合、そもそも「非日常を価値」とセットになるんですね。
キャンプはまさに、「都会の喧騒を離れて」という言葉でも表されるように、非日常の象徴のようなレジャー。
言葉を調べるときにあえて紙の辞書を使うことで、不意に新しい言葉や意味と出会える、とか、あえてひと駅早く降りて歩くことで、運動の機会を作ったり普段じっくり見ない街並みから気づきを得る、みたいなのも「不便さ」を活かして別のものを得るためのUXだと言えます。
でも、普段の仕事で調べごとをするときや、通常の移動では、基本的には最短、最効率で行いますよね。
「あえて不便を」は、あくまでも「あえて」であって、ベーシックではないんです。
ClubhouseやDispoの機能も、これに該当します。
「あえてアーカイブなし」にすることで、「今しか聞けない」を演出。
「あえてすぐに写真が見られない」とすることで、ワクワク感を演出。
これが良い、悪いということではなくて、instagramやTwitter、あるいはGoogleやAmazonのような、多くの人にとって生活にびっちり根付くようなUXではないのではないか、と思うんですね。
「不便さ」にフォーカスしたUXの行く先は
ClubhouseとDispoの今後
もちろん、長期間にわたってどっぷりClubhouseやDispoの世界にハマる人も出てくるでしょう。
ただし、それはニッチ需要であって、「これらのSNSが生活に根付くようなサービスになるか、定番化するか」という視点で見ると、そんなことはないだろう、というだけのことです。
それが良いことか悪いことか、というのとは全く別の話で、むしろ運営者もそもそもニッチなポジションを狙っているのでは? という気もしています。
というのも、不便さにフォーカスしたUXは今後も増えていくと予想されるからです。
上の例にも書いたとおり、技術の進歩であらゆることが簡単にできるようになったり、やる必要がなくなったことで、結果的に失うことになったものや気付きを再度得るためのUXです。
時には「ひとりで物思いに耽る時間」だったり、「誰かへの感謝」だったり、「コミュニケーション」だったりと、意識して得ていたわけでなくとも、自然と活かされていたもので、人生を豊かにするために実はとても重要だった、というものがどんどん出てくるはず。
それを埋めるような文化やサービスが、この先もっと生まれるだろうと思うんですね。
そして、こうしたサービスは、どちらかというと「ニッチで、ハマる人はハマる」という類のもの。
ということで、ClubhouseやDispoは、このブームが落ち着いた後、一部のファンに支えられながら、細く長く続いていくのかなぁ、と見ています。
変わりゆく不便の領域
不便さにフォーカスする手法の面白いところは、その「不便」の領域がどんどん広がっていくという点です。
技術や文明の進歩で生活が便利になった結果として失ったものに着目するので、現在感じる「不便」と、10年後に感じる「不便」はまったく異なるんですね。
言い換えると、不便が不便でない時代は、そこから得られるものに特別な感情が生まれない、ということ。
たとえば、「手書きの手紙は心が込められているように感じられて嬉しい」というのは、電話やメールが普及したからこそ生まれた感覚ですよね。
直接話す以外、手紙を渡すくらいしかコミュニケーションの手段がなかった時代では、そんな感覚に思い至らないはずです。
だから、この先に生まれる「あえて不便を取り入れたサービス」はなかなか予測できません。
逆に言うと、技術進歩でもうすぐ実現しそうな未来から、「その結果、人は何を失うか」を予想して、それをカバーするようなサービスを考えることができたら、もしかすると刺さるかもしれませんね。
もちろん、あえて不便にするわけですから、そのサービス設計の難易度は相当高いものになるでしょう。
ただただ「不便なサービスだ」と見向きもされない可能性が高いとさえ思います。
それでも、最先端技術で戦うのが厳しいときは、不便から何を得られるかという観点に切り替えてみるのも、面白そうではありませんか?
マーケティングの幅が広がっていくかもしれませんね。
というわけで、ClubhouseとDispoのブームから、そんなことを考えてみた、というお話でした。